拡大版 『ローレライ』と『終戦のローレライ』


映画もまあそれなりだったと思うし、小説は水準レベルを超えた力作だったとは思うのです。ただ何かどうにも引っかかるというか、何故二千ページを超える大作を読んで妙な徒労感を感じるのかとか、役者陣の熱演にしか喜べないこの己のモチベーションの低さの理由はどこから来るのだろうかと思い、ちょっとこんなことを考えてみました。
とっくに公開は終わっちまいましたが、吐き出しておかないとどうにもすっきりしないので。
結構ネタバレですので未見の人はご注意をば。長いですよ。行くぜ!


終戦のローレライ』というどうにも小説な小説

それなりに楽しんでいた割りにどうもページの消化に手こずったのですが、兵器や舞台等の状況説明等、細かいディテールを軍事マニアの素養がない自分は退屈に感じているのだろうと整理をつけてはみましたが、読了するとどうもバランスの悪さというか、何かそういうことではない気がする。
圧倒的な大長編であることが迷彩になっていると思うのですが、『終戦〜』って近年の作品とは思えないくらい決定的にエンターテイメントとして作話法が古いです。キャラクター造形にしろ、演出にしろどうにも愚直過ぎる。名作のファミコンゲームみたいというか。多分ステロなキャラ付けとか仕掛けの単純さとかがその辺の印象の原因なんでしょうが、その根本は、物語を通じて使われた小説作法である「理由は全て説明する」、これがこの小説、ひいては映画化に際する根源的なトラブルの原因になっているように思われるのです。
この人物がこういう行動を取るまでに至った経緯を全て書き記す、「Aという人物がこういう場面でこういう行動を取った。何故そうしたかというとAは過去こういう人生を送ってきたからである。Aの取った行動に対してBはこういう行動をした。なぜそうしたかというとBは過去こういう人生を送ってきたからである」といった構成の反復という、全編通じて主要登場人物のバックボーンの説明で大筋が行きつ戻りつする手法が良いか悪いかというのは個人の受け取り方次第だと思います。しかし低速の大河小説というのは、高機能だがものすごく巨大なコンピュータの様といいますか。やっぱりある程度必要のない部分は削っておくべきですし、小型化できる部分は小型化しておくのが一つの嗜みというか作家の矜持なんじゃないかなあというか。個人的には明らかにスピード感を損なっていると思いますけども。
ただ、じゃあ『終戦〜』自体に不必要な部分があるかというとそうも言い切れないのです。
そもそも「潜水艦・太平洋戦争・女の子の三題話」というテーマ、の「女の子」。この太平洋戦争の潜水艦戦に如何に女の子を組み込ませるか、徹底したリアリズム(手法として。別にリアルだとは思いませんが)の戦争にファンタジーとしての女の子を、如何に齟齬を作らず成立させるか。少なくとも上巻の八割はそのためだけに書かれています。そもそも伊‐507がドイツ籍であるとか少女を核にした超兵器であるといったことには何も必然性がない。言わば「少女超兵器を積んだ戦利潜水艦太平洋戦争参戦」というキテレツなテーマを書きたいが為の後付けであるわけです。
リアリズムの補完を前記した全て記述する作法によって行いながらも、テーマは作法に相反する荒唐無稽。穴の開いた桶に水を汲むようなもので、結局この二つのちぐはぐさが奇妙なバランスの大本であるのでしょう。

ローレライ』というどうにもな映画

さて、そうした結果的に大河小説となった原作の映画化であるわけですが、どうにも歩調があってないにも程がある映画となっていました。
脚本化する際に大幅な簡略化が加えられているのですが、時系列順のエピソード、潜水艦発発進→第一戦→クーデター→テニアン最終決戦→脱出の流れは原作、映画とも同じ流れで進行します。しかし、これだけの枚数のストーリーを2時間強の映画脚本として捌いたわりに筋立てそのものに変更がないっていうのは『指輪物語』なんかで考えたら判り易いと思うのですが、ちょっと異常です。
映画化における最大の犠牲者であろうフリッツの存在をはじめとして、多大な犠牲者を払う伊―507搭乗からローレライの回収作業までという大幅な省略が施されているにも関わらず、映画の進行はまったく影響を受けていませんでした。じゃあ上巻いらねえじゃん、と一瞬思ったのですが、少なくとも『終戦のローレライ』という小説においてそれは正しくありません。前述したように、上巻分の膨大な枚数全ては、本来荒唐無稽であるはずの大筋を成り立たせる為のディテールの補強に費やされているからです。
上巻の中心は、海中に遺棄されたナチスの新兵器「ローレライ=パウラ」のサルベージであるわけですが、そのエピソードの省略は、引率してきた兄フリッツ、作業の要である折笠と清永の存在理由が直接の影響を被っていました。この省略、一見筋立てに影響しなかった様に見えるのですが、福井晴敏の全て捨てキャラの様で全て役割がある作劇法上、各キャラの存在意義に致命的な打撃を与えてしまいました。
まずフリッツ。ナチスドイツと大日本帝国軍の狭間という立ち居地から軍人田口、折笠らを対比させることで造形に奥行きを演出するキャラクターですが、彼の最大の役割はドイツから日系ドイツ人のパウラを連れてくると同時にそれら細部を説明、補完する点にあります。しかしこの脚本の場合パウラの出自の説明はうまく回避してありますので、結果フリッツの降板は大英断だったと言えないこともないかもしれません。元来SSの制服で長髪の美形というマンガキャラですから、実写化はかなりの冒険だと思います。残念ながら田口、折笠のモチベーションは猛烈に水っぽくなってしまいましたが。
大失敗だったのはサルベージがない時点で折笠が乗艦する意味が消え、重要なパウラが折笠に惹かれていくきっかけも消滅している点です。
そして清永。サルベージ用の作業艇を運転する為に乗艦した彼の意味も消えている訳ですが、同時に折笠の影になる要素が消えているのが、実はかなり大きい。特攻を盲信する清永と自暴自棄故に特攻に惹かれる折笠。次々と命を散らす兵隊達の姿から戦争の不実を見出して行く清永は、物語半ばで無残に死んでいきます。後半の折笠の見せ場、そしてパウラへの求心は全て清永の犬死による所が大きいのですが、これらが全て消滅したことにより、映画の折笠のモチベーションは非常になんだかよくわからないことになってしまいました。
中盤の最大イベントであるクーデターは、原作だと折笠最大の見せ場なのにも関わらず、折笠が右往左往する内に絹見役所館長の一喝という「勢い」で収束しています。これだけでなく、あらゆる原作にあった綿密な演出は、大御所役者陣の迫力押しというかなり大雑把な演出で押し切っているというか押し切りすぎです。妻夫木君はなんかすげえごっつぁんな若者に成り果て、清永にいたっては「こいつ生きてると落ちがつかねえから取り合えず殺っちまえ!」みたいな原作の上を行く犬死です。つーかこれが一番びっくりした。

総論

まだ全然言い足りないのですが、一応ここまでで。ぼくは「平成ガメラ」シリーズをこよなく愛すボンクラ映画ファンなのですが、結論として樋口真嗣の演出はびっくりするくらいへっぽこであると言わざるを得ません。
結局樋口演出はどうにもこうにもオタクの演出なのです。この場合の「オタク」は、敢えて否定的なニュアンスで使っております。
勿論ぼくなりの解釈ですが、「細部にこだわり過ぎ、全体としてのバランスがおろそかになる」のが「オタクの演出」では特有の失敗の原因であると思うのです。「エンターテイメントの整合性」と言い換えた方が判りやすいかもしれません。
細部のディテールに凝ればシーンとしての完成度は確かに高くなるのは理屈ですが、ジョージ・ルーカスギレルモ・デル・トロウォシャウスキー兄弟などの一連の映画を観ている時の「なんかえらいすげえんだけど全然面白くねえ」みたいな感想は、全てわかりやすくそこに回帰するものだと思うのです。
ピーター・ジャクソン、バートン、フィンチャーサム・ライミ、そしてスピルバーグ。どいつもこいつもオタですが、面白さの質に関する空中感覚こそ、彼らの映画が一線を画す根拠であるとは思えないでしょうかどうでしょうか。

終戦間際にすごい索敵のついた潜水艦が太平洋艦隊に特攻する」という荒唐無稽な大筋を成立させるために、作品内のありとあらゆる事象を全て費やし実際成立させ、かつ「戦中の話を直接聞いた最後の世代による戦争観」を打ち出すこと(それが成功しているかと言うと大失敗だったんだけれども)の両立こそが『終戦のローレライ』のすごさなのだと思います。しかし福井晴敏が全力で打ち立てたであろうテーマを丸投げでかわす様な映画制作は、ぼくは無しだと思います。だってホントは監督と原作者仲悪いじゃねえのと疑うくらい、お互い小説と映画に対して無造作なんですもの。書き上げた原作は逐一樋口監督の下に送られていたそうですが、ホントなのか? どうなのよ?
つーわけで映画と原作が互いに補完しあうような体裁のくせに潰しあうみたいな結果をして「競作」とか銘打つのはどうかなあ、と思ったのですよ。

以上。あ〜、さっぱりした。読了感謝いたします。

終戦のローレライ 上

終戦のローレライ 上